第1章 報われないと知って、私は後悔した

「栞、前に話した件……もう決めた? おじいちゃん、かなり危ないの。私とお父さんには、あんたしか娘がいない。……それでも、家に戻って会社を継ぐ気はないの?」

がらんとした部屋で、長谷川栞は絵筆を握ったまま、受話器の向こうの母の疲れた声を聞いていた。

薄暗い室内。キャンバスに描かれた三人家族へ、最後の一筆を落とす。

――今回も、きっと無理だ。

電話口の空気がそう固まりかけた、その瞬間。

「……うん。いいよ」

長谷川母が息を呑む。予想外だったのだろう。

「え……ほ、本当に? 同意するの?」

「はい」栞の声は静かだった。「同意します。ただ、こっちの片づけがあるから少し時間がほしい。半月以内には戻る」

いくつか事務的な確認を交わし、通話を切る。

栞は部屋を出て、二階の廊下からロビーを見下ろした。

そこにいるのは三人。

視線が、ソファに座る男へ滑る。

整った目鼻立ち。彫りは深いが鋭さはなく、内に沈むような気配をまとっている。シャツもスラックスも皺ひとつなく、ボタンは喉元まできっちり留められていた。――育ちの良さと品が、隠しようもない。

この男が、彼女の夫。

家の決めた縁談を拒み、家と決裂してまで「この人じゃなきゃ嫌だ」と結婚した相手。

帝京市の中野社長は、いつも笑わないことで有名だ。界隈では「クールな御曹司」と呼ばれる。

その彼が今、ひとりの女に穏やかな声で何かを言っていた。

隣では、五、六歳のやけに整った顔立ちの男の子が、女の胸へ飛び込む。

「美希おばさん、金目鯛の煮付けが食べたい! 作って、ね?」

中尾美希は愛おしそうに彼の鼻先をつんと突き、微笑んだ。

「いいよ」

中野蓮の目がぱっと輝く。

「美希おばさん、最高! ママはさ、あんまり食べさせてくれないんだもん」

口を尖らせる。

「じゃあ今日は、蓮はいっぱい食べようね」

「うん!」甘い笑顔のまま、子どもは言った。

「美希おばさんが本当のママだったらよかったのに」

中尾美希の笑みが、さらに深くなる。

二階に立つ栞の胸が、じわりと痛んだ。

子どもは加減を知らない。食べ過ぎてお腹を壊すのを見たくないから、制限しているだけなのに。

もう見ていられなかった。

夫と息子。自分のはずなのに、三人のほうが「家族」に見える。自分だけが異物だった。

栞は背を向け、部屋へ戻った。

ほどなくして、廊下に足音。

中尾美希が入ってくる。

丁寧に作り込まれたメイク、柔らかな笑み。

「栞さん、一緒に下りて、蓮のお誕生日お祝いしましょう?」

――元は、彼女の部下のインターンだった。

貧しい家庭、能力は「悪くない」程度。仕事が見つからなければ田舎へ戻って結婚するしかない、と泣きながら訴えた。

栞は情にほだされ、会社に入れた。

まさか、自分の手で家庭を壊す相手を招き入れることになるなんて。

中尾美希は意図的に栞を真似た。華辰グループの新しい社長夫人になろうとした。

気づいた時には、彼女は家に入り込み、夫と息子にすっかり馴染んでいた。

栞はその仮面の下を見抜いている。

そして、自分の「狼を家に入れた」愚かさを、ずっと恨んでもいる。

「具合が悪いから、行かない」

冷たく言うと、美希は無垢を装って言葉を重ねた。

「栞さん、あなたは蓮のママです。蓮には、あなたの祝福が必要ですよ」

栞は眉を寄せ、断ろうとして――ふと、息を吐いた。

これは大人同士の問題だ。蓮は子ども。巻き込むべきじゃない。

母親として、祝福だけはしてやらなきゃ。

画材を置き、美希の肩をかすめて階段を下りる。

無視された美希の笑顔が一瞬だけ固まり、目の奥に陰が走った。それでも彼女も後を追う。

食卓に近づいた瞬間、栞は立ち尽くした。

十年前。

自分を鍛えるために華辰グループへ入り、中野航平と出会い、喧嘩しながら恋に落ち、結婚した。家の決めた道を拒み、家と決裂してまで。

この十年、後悔はなかった。

金も顔もあって自分に優しい夫。頭が良くて可愛い子ども。

私は幸せだ、と本気で思っていた。

――でも。

父子のために甲斐甲斐しく取り分ける美希を見て、栞は理解する。

彼女が現れて、すべてが変わった。

箸を取った途端、胃がむかついた。

栞は箸を置き、洗面所へ駆け込み、吐き気に耐えながらえずく。

航平が立ち上がりかけたが、焦った顔の美希が止めた。

「中野社長、栞さん、どうしたんですか?」

「最近ずっとこうだ。大丈夫、心配するな」

航平はそう言い、洗面所のほうへ視線を投げて冷たく笑った。

「今度の言い訳は何だ? 風邪か? 家の飯がまずいか?」

栞は答えない。ティッシュで口元を拭う。

――妊娠してる、なんて言って信じる?

……いい。どうせ出ていく。言う必要なんてない。

夫と不倫相手の関係を壊す気もない。

秘書のくせに、上司を咎めるように美希が甘えた声を出す。

「中野社長、そんな言い方しないで。栞さん、本当に辛いのかもしれません。最近すごく痩せて……」

立ち上がり、熱い水を注いで差し出した。

「栞さん、大丈夫ですか? お水、どうぞ」

栞はまだ気持ち悪い。何より、その顔を見たくない。苛立って手で押し返す。

力を入れたつもりはなかった。

だが美希は、押された勢いに合わせてわざとよろけ、湯が自分の手にかかった。

「あっ――!」

「美希!」

「美希おばさん!」

航平と蓮がほぼ同時に駆け寄り、真っ赤になった手を覗き込む。

蓮の瞳に涙が溜まる。

「美希おばさん、痛い? すごく痛い?」

美希は健気に笑ってみせた。

「大丈夫、蓮。おばさんが気をつけてなかっただけ。痛くないよ」

航平が栞を睨む。目に火がつきそうだった。

「また何をやってる!」

栞は胸が裂けそうだった。

美希の得意げな視線。

そして、息子が庇うように美希の前に立つ姿。

絶望に目を閉じる。

「……私じゃない」

信じてもらえるはずがない。

かかりつけ医が来た。航平は美希を支え、自分の胸に寄せる。深い瞳にも失望が浮かんでいた。

「栞……変わったな。昔のお前は、嫉妬でこんなことはしなかった」

変わった?

――変わったよ。

十年前の私は、自然分娩で腹に皺が刻まれることもなかった。

家事に追われて睡眠時間を削り、肌がくすむこともなかった。

男の一言で仕事を捨て、台所に立ち、挙げ句に新人に取って代わられることも。

栞は突然、ひどく疲れた。

言い訳の言葉を飲み込み、踵を返して二階へ上がる。

部屋に入る前、もう一度だけ見下ろした。

混乱の中心で、かつて命より大事だと思った夫と息子が、変わらず美希を囲んでいる。

栞は自嘲気味に首を振り、そっと腹を撫でる。

スマホに「離れるまでのカウントダウン」を設定した。

そして、振り返らずに部屋へ戻る。

これから先、もう二度と――彼らを邪魔しない。

次のチャプター